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前田一歩園財団について
Maeda Ippoen Foundation Profile

前田光子(まえだみつこ)


前田光子(三代目園主)
1912(明治45)~1983(昭和58)年

(生い立ち)
 明治45年(1912)、鉄道建設技師の二女として栃木県に生まれる。父の転勤とともに各地を転校するが、父の死後、家族は宝塚の叔父のところに身を寄せる。これが、宝塚歌劇団へすすむきっかけとなる。

(タカラジェンヌ)
 家族の猛烈な反対の中、16歳で宝塚音楽歌劇学校に入学。卒業後は「文屋秀子(ぶんやひでこ)」の芸名でタカラジェンヌとして活躍。

(園主として)
 昭和11年(1936)、24歳の時に、25歳の年の差を乗り越え前田正次と結婚。
 昭和18年、初めて阿寒湖畔を訪れ、その自然の美しさに魅了されるが、夫の病状などから、東京と阿寒湖を行き来する生活を送っていた。
 昭和32年(1957)夫正次の死後、阿寒湖の自然を守ることや阿寒湖の観光振興に寄せた夫正次の熱い思いを引き継ぐため3代目園主として阿寒湖に定住した。
阿寒湖の自然を守ること、阿寒湖に住む人々の生活を守ること、阿寒湖の観光を振興することに心血を注いだ。

(「阿寒のハポ」)
 アイヌの人々を愛し、アイヌの人々の経済基盤と生活基盤を確立するため、店舗や住宅用地に土地を無償で提供、現在のアイヌコタンの発展につながっている。アイヌの人々から「阿寒のハポ(母)」として慕われていた。

(クリスマスと子供)
 子供がいなかったせいか、子供をこよなく愛し、子供達と植樹をすることを大きな喜びとしていた。クリスマスには、大きな木をクリスマスツリーに飾り立て、阿寒湖中の子供を集め、クリスマスプレゼントをしていた。
阿寒湖のまりも幼稚園、阿寒湖小学校、阿寒湖中学校の校歌は全て前田光子の作詞・作曲によるものであり、現在も歌い継がれている。

(財団の設立)
 光子には子供がなかったことから、この阿寒の貴重な自然を後世に残すためには、森林など全ての財産を寄付して財団法人を設立するしかないと考え、設立に向け、関係機関等の協力を仰ぎながら、法律等大きくたちはだかる障壁を乗り越え、昭和58年(1983)4月、財団法人前田一歩園財団を設立し、初代理事長に就任した。しかし、持病が悪化し、理事長就任のわずか18日後に、71年の生涯に幕を閉じることとなった。
 財団設立への強い思いは『財団法人前田一歩園財団設立趣意書』に記されている。

(エピソード)
 東京の開発会社総帥が阿寒湖で観光開発をやりたいと面会を求めてきたが、阿寒の自然を守ること、そして、阿寒湖は地元の人と一緒に発展していくべきだとの思いから、決して会おうとしなかった。

(残した言葉)
 「何時も思うことは、自然保護という人間の思い上がりです。自然を保護するのではなく、大きく自然の保護を受けているのが真の自然保護であり、私達の生命の糧です。」