一般財団法人 前田一歩園財団
Maeda Ippoen Foundation

財団の成立ち




前田正名胸像
(1)前田正名の人となり
  前田一歩園の始祖である前田正名は、嘉永3年(1850)薩摩藩の貧乏漢方医の六男として生まれた。
  若くしてフランスに留学、8年後の明治10年帰国(27歳)、内務・大蔵・農商務の各省に勤め、明治23年農商務次官を最後に退官した。(40歳)。
  正名は、明治開化期以来大正10年71歳の生涯を閉じるまで日本の在来産業発展に一生を尽くし、その功績は高く評価されているが、反面「前田は頑固な国家主義者に過ぎない」などのそしりもある。
  ともかく彼は近代日本経済史上独特な異彩を放っている人物とされている。
(2)一歩園の由来
  正名は退官後、実業界振興に精を出す一方、自らも地方産業の模範とすべく各地に牧畜、果樹園、林業などの事業を起こした。そしてその事業体に地名を冠して「○○前田一歩園」と称した。「一歩園」は正名の座右の銘「物ごと万事に一歩が大切」に由来する。
  最後まで残った北海道阿寒の阿寒前田一歩園は、明治39年正名が国有未開地処分法にもとづき取得 したが、成績振るわず林業に重点が移った。余談であるが、正名が阿寒の地を視察した折、阿寒湖畔の優れた景観に感銘し「この山は伐る山から観る山にすべきである」と嘆じたという。昭和9年に阿寒湖・摩周湖・屈斜路湖を含む約9万ヘクタールの地域が阿寒国立公園に指定された。その指定請願が帝国議会に 提出されたのは、奇しくも正名没年と同じ大正10年となっている。


前田正次
(3)一歩園から財団へ
   二代目園主正次(正名の次男)及び三代目園主光子(正次の妻)は「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」という家訓のもと「この美しい自然を後世まで遺すには財団法人を設立してそれに全財産を寄付するのが最良」との結論を得、各方面に働きかけ、遂にその高い公益性が認められ昭和58年(1983)4月1日に財団法人前田一歩園財団が設立され、全財産がこれに寄付されたのである。

(4)設立趣意書
   昭和58年(1983)財団設立にあたり、財産提供者である前田光子・前田エア子・前田峰子の3氏によって  起草されたものである。
  しかし、原典は設立代表者である光子氏が前田家に嫁してからの40年を振り返り、前田正名翁が遺した「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」と言う一歩園精神を綴ったもので、財団設立の趣意書としては型破 り とも思える文面であるが、そこには自然保護、阿寒国立公園に寄せる光子氏の阿寒の自然美を子々孫々に 残したい、残さなければならないという思いのたけが込められている。10数年来構想を練ってきたものといわれており、時あたかも昭和58年3月19日は亡き夫君である正次氏の27回忌を迎えるときで、ひとり阿寒の山を守ってきた光子氏にとって感慨ひとしおのものがあったといわれている。


(参考資料)「前田正名の略年譜」

日本歴史学会編纂「人物叢書・前田正名」京都大学農学部教授祖田修著    吉川弘文館発行より引用
西暦 元号 年齢 項目 要旨
1850 嘉永3 誕生 薩摩藩士で漢方医でもあった前田善安の7人兄姉の末子に生まれる
1858 安政5 幼年期 医師緒方洪庵門下生の八木称平に師事、蘭学、漢学、洋学、貿易等を学ぶ
1865 慶應元 15 青年期 長崎の語学塾に学ぶ、塾生に陸奥宗光・高橋新吉・高峰譲吉・浜尾新等
1868 明治元 18 英辞典編纂 実兄献吉と高橋新吉・正名の3人で和訳英語辞典(薩摩辞書)編纂
1869 明治2 19 仏国留学 辞書編纂を通じて大久保利通・大隈重信の計らいでフランス留学
1877 明治10 27 帰国 欧州の草木・果物・蔬菜類等の種苗持って帰国、三田育種場長を拝命
1878 明治11 28 仏辞典翻訳 リットレーの和訳仏語辞典完成(翻訳者は前田正名)
1879 明治12 29 大蔵省入省 1月大蔵省御用掛兼務・商務局勤務、10月「直接貿易意見一班」を起草
1881 明治14 31 結婚 大久保利通 姪 石原近義次女「イチ」と結婚、大隈重信親代わり松方正義媒酌人
1884 明治17 34 興業意見 「興業意見・緒言」を起草
1888 明治21 38 山梨県知事 山梨県知事就任、甲州ブドウ栽培を奨励
1889 明治22 39 閑職・復帰 神戸オリーブ園・播州ぶどう園経営を受託、工務局長就任後、農務局長兼務
1890 明治23 40 次官就任
次官辞任
1月岩村通俊農商務大臣の時、次官に就任するも大臣病に倒れる
5月陸奥宗光農商務大臣就任で辞任、元老院議官・貴族院勅撰議員就任
1894 明治27 44 産業組織化
商工会結成
五ニ(織物・陶器・銅器・漆器・製紙と彫刻・織物)会など組織化。大日本商工会結成・初代会頭就任
1897 明治30 47 関税問題
欧米視察
関税問題で単身渡米、大統領・上下院議員等と会見、関税軽減を図る。この後亡くなるまで欧米視察八回、滞在期間は10数年に及ぶ
1898 明治31 48 公職引退
事業展開
地方産業振興運動の指導者的地位から離れ、あらゆる公職から引退
宮崎の開田、釧路の製紙事業計画に専念
1899 明治32 49 開田着手 宮崎県庄内(一歩園日向疎水部)で開田事業に着手
1901 明治34 51 開田完成

製紙事業
計画面積580haに対し当初68ha、明治40年123ha、大正元年84ha、大正10年220ha、事業予算48,611円に対し146,000円に増額
北海道釧路の製紙事業不振で閉鎖
1910 明治43 60 前田家訓 「一歩園の財産は公共的基本と為し・・・」なる家憲を建てる
1911 明治44 61 建議 貴族院へ「産業振興に関する建議」全院一致で採択
1919 大正8 69 欧州旅行
一歩園事業
帰国後、欧州事情を報告書にまとめ、建議し、全国行脚で講演
宮崎の開田事業や北海道の山林事業管理に当る
1920 大正9 70 所有地構想 前田所有地、阿寒湖畔3,859ha、富士朝霧高原300ha、宮崎200ha
阿寒で寒帯植物・富士で温帯植物・宮崎で熱帯植物の育成構想を練る
1921 大正10 71 逝去
男爵受領
福岡で8月11日死亡
同日付けで男爵の称号を受領

(参考資料)「財団法人前田一歩園財団設立趣意書」

財産提供者


前田エア子

前田光子

前田峰子
 前田一歩園の設立にあたり、一歩園という名前の由来や、前田家の家風をまずご紹介いたします。
一歩園の名は、私の主人正次の父にあたる初代の前田正名が付けたもので、座右の銘「万事に一歩を大切に」から由来すると聞いております。
 父正名は、人々から「日本産業の祖」とまでいわれるほど、各地の産業の振興に日夜寝食を忘れて出歩き、家財を投げうって尽力されたとのことですが、そのため母市子は6児を連れて、何時も苦労されたようです。ついに子供達は父親の膝の温かさを知らなかったと過去を私に語り聞かせる主人は、その父を評して、「父は自分達だけの父ではない、日本の父だ、母は前田賢夫人であった。」と私に伝えてくれたものでした。
 自分はどう思われようとも、広く社会に尽くす父を真に尊敬できる事の素晴らしさに、私も又その主人を敬愛し、この家風のうちに嫁してすでに40余年が過ぎました。ことに主人がなくなってからの27年間は、東京を引揚げ、一人阿寒の一隅に移り住むことになりました。
 肉親も友一人もない明け暮れに少しもその無量を味わうことなく何よりも幸せなことに健康に恵まれての日常を有難く思う時、雄大な自然境に我が物と思うことの愚かさを悟らされ、家風に学び得た一歩園精神をここに植え付けられた自分をかえりみます。
  さて、一歩園所有の総面積は4,300ヘクタール、そのうち山林3,800ヘクタールと聞かされております。私のこの言葉にあるいは不審を持たれましょうが、昭和19年8月初めて阿寒に連れて来られ、主人の案内でボッケの湖岸に立ち、手にしたスティックの先を円に振り「一歩園の山林はこうだよ」と教えられたこと以外、未だ何の知識も得ておりません。
 国有林と林相を連ねた広大な原始林、この視界に定めた境界をつけることのむずかしさ、と言うより天恵の大自然の前に小さな人間一人の格式なぞ思うだけに如何に無力であるかが先に立ち、しかも、自分の所有物なぞ思うだけに気が遠くなる責任の重さから如何にそれを軽くするかを考えさせられました。
 私は初めからこれを一人で背負う気持はは少しもなく、幸い全面積が国立公園特別地域と保安林の指定を受けていることに大きく救われて、国や道の指導によって森林施業計画を立て、古くからの一歩園従業員の真剣な勤務に支えられながら、山林の経営に努めてまいりました。また、これらの体験を通して、私はこの雄大な原始境から金銭以上の貴いもののあることを十分に悟ることができました。そして何時も思うことは、自然保護と言う人間の思い上りです。自然を保護するのではなく、大きく自然の保護を受けていることが真の自然保護であり、私達の生命の糧とわきまえて、如何にこの大切なものを永存すべきかを深く考えるところであります。
 山川草木、皆々生きている。生命のある限り、山のためにもまた、樹木のためにも新陳代謝の必要も考え合わせ、老令木もそれなりに活用のできるうちに勇気を持って伐採を行い、幼樹を育て、また、植樹の義務を怠らず、後世代の育成には先ずは私達が行動し、その成果を現実に認めさせる事こそ大切と考えました。
 例えば、阿寒では毎年5月末の雪消えを待ち、小・中学生、そして阿寒湖畔の住民達皆様揃って原野に植樹を実行し、年毎にその成長を確め、そのよろこびを次年のはげみにしております。
 子供達も嬉々として参加し、指導員に学びながら1本1本苗木を植え、根元をふみ、枯葉を集めて根元に太陽の直射を避けてやることにも心をくばります。
 善きことを教えみちびく大人の熱意と、善きことを行うことに快感を味わい、しだいに自らの夢を育て、次には言わずとも行わずにはいられない深い関心を寄せる後世代への道しるべを私達の大役と考えたいものです。
 1983年阿寒の元旦にあらためて一歩をふみしめ、大空に映える白銀の峰々、落葉の素肌に厳寒の風雪をじっと耐えるそのたくましさをみるとき、住むに暖をとり衣服を重ねて、なおきびしい寒さに身をちぢめる自分の意気地のなさを阿寒の大自然から教えられます。
 雪どけに、早や新芽が若葉に、そして新緑に、花咲き、小鳥や胡蝶の舞い遊ぶ春を楽しみ、秋には紅葉の絶景とて多くの人々のよろこび、四季それぞれの素晴らしさなど偉大な自然の前には、親にもうなづけなかったことの万々に、今は全く理屈のつけようを失っている素直な自分をかえりみております。
 「自然は最高の師なり」と深い感謝の念が一杯です。
そして、この阿寒に対する亡父の志に、また病弱の心身をかけた亡き主人への強いはげましの詩を心寄せられた今は亡き、
武者小路先生の遺訓
    「如何なる時にも自分は思うもう一歩
                               今が一番大事な時だもう一歩」

先代前田正名翁の家憲
    「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」
そして遺訓
    「後の世の春をたのみて
                            植えおきし人の心の桜をぞみる」

などの教えが心にきざまれております。
 ここに、前田一歩園の永遠の名称と共に、この家憲と遺訓を残し伝え、大自然の偉大な天恵に報い、そしてこの天恵を多くの人々に永遠に味わっていただきたく、前田家の財産を寄付して財団を設立し、自然環境の保全とその適正な利用が促進されるよう調査研究、自然保護思想の普及啓蒙、自然環境の保全等に寄与する人材の育成などの公共事業を行い、道民の福祉の向上に寄与しようとするものであります。


            昭和58年3月1日

                    設立者
                    阿寒郡阿寒町字シアンヌ7番地62
設立者代表          前  田  光  子

                    東京都世田谷区駒沢4丁目27番9号
前  田  エア子

                    アメリカ合衆国ニューヨーク州サウザンプトン、アビウタスロード
前  田  峰  子